ひきこもりポンコツメンヘラ

ひきこもりの生活保護受給者の日常。アパートの一室から呼びかけています。生活の記録。実況中継。自分語り。統合失調感情障害。

人間放棄✿人生獲得
休憩逃走中
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地上に放り込まれたゴミ屑

精神的に殴る暴力はなかなか認められないみたいな、この地上でゴミとして生きるのが何だか悲しい。肉体的暴力でなければ傷と認められないのだから、暴力なんてないと言われてるのと同じ。

 

というのも実はせめて隣の県とかに脱出したいと思って市役所の人に相談に行ったのです。DVでもない限り家族の援助があるのに引っ越すのはもったいないと言い張られ無理だとの結論。確かに私も切羽詰まって思いつきで駆け込んだみたいな感ありで説得の用意がなかったのも敗因です。ただDVでもないならダメって。

しらん。どっか消えたい。どうにもならんしやる気無くした。仕事なんかしらん、人生バックれたい。

一つだけ。私が肉体的暴力を受けなかったのは触るのも汚らわしいと親は思ってたからで決して優しさからではない。その辺の事情を言葉にして話して理解してもらうなんてキツすぎるから肉体的な暴力ではないですというしかない。職員の人が悪いわけじゃない。ダメな職員もどこかにいるかもしれないが私はそうじゃなかった。制度上無理なのだ。肉体的暴力であっても、それをいうのは屈辱ではないのか。確かに職員の人のことをイヤな人だなと一切思わなかったとは言わないが制度の問題として無理。どうにもならない。

 

だけど仮に引っ越したとして楽になれるのだろうか。世俗から離れたい。

要はお金で安定した生活を維持しながら精神も安定できなければ、仕事はしてもしなくても探さなくても探してもどっちでもいいけど、生きても生きなくてもいいとは言えないのだから。やっぱり、生きねばならないのでは。生きられないという感覚は病人だからだろうが、悲しいからもうごめんなんだよ。強迫的に生きろと言われるのもイヤなものだし死ぬ自由はあるだろう。今の私はまだこの地上に未練がある。どこかに楽しい場所があるのではないか、どこかに友だち候補が待ってるのじゃないだろうか、そんな未練を捨てれない。中年になっても走っていいし生きる場所も自分で選んでいいじゃないか。

 

私は教会に行くようになり渡辺和子さんを尊敬するようになっている。矛盾してるだろうが咲きたい場所で咲きたいが叶わなかった人を慰めるいい本だと思う。置かれた場所で咲きなさいのことだけどね。でもそれはクリスチャン限定かもしれないし命令調なのが気にかかる。せめて地上で移動くらいはさせてほしい。でも本当に尊敬してる。タイトルが強烈で反感を買うのだろうが、それとどこにいて住んでも神様は心の中を天からのぞいているから場所が問題じゃないと私なりに結論づけた。思うがままに生きられる人ばかりじゃない。制約の中で生きる上での慰めが「置かれた場所で咲きなさい」ではないかなと。もちろん、自分を置きたい場所は自分で決めていい。自由に生きられなくて悲観して死ぬくらいなら家出でも何でもすればいい。

 

これは私は本気だ。自殺したからと行って地獄にはいかない。私は仏教的な輪廻転生も信じている。仏教も自殺はダメは前提だろうが輪廻転生で次はいい人生に、と思うなら、証明したらいいと思う。体が燃えたらまたどこかで再生すると信じてるから、地獄ならこの地上も生き地獄。ちょっとお寺でも話を聞いてみたくなってきた。

 

信仰より何かにすがりたい、生きたい。