どうせ自分なんて、と思って生きてきた。
やりたいことがあっても「どうせ出来ない」と心に根がはってしまって、そう思う必要などないと誰かに助言されても自分で言い聞かせてみても取れっこないまま中年になった。
どうせ出来ないかもしれないなら、いずれはどうせ死ぬんだから生きなければいい。
どうせ、ってどのみち思うなら...
どうせ死ぬんだから何だってやったらいい。
何かやると言っても例えばマラソン選手になって大会で1位に絶対になるというような夢は賭け・ギャンブルだけど走ってみたいならマラソン大会に出よう、くらいは実行してもいいだろくらいの意味。
何でマラソンの話になるかというと私が高校生の時、持久走が唯一の体育の授業で好きだったから。1位になった事は1度もないけれど球技とか得意じゃなかったし走るのは単純に好きだった。持久走の順位は真ん中くらいでビリになった事はなかった。短距離の方が不得意でビリばかりだった。瞬発力がないといえばそれまでだけど長い時間かけて走るのは心地いいものがあってゴールした時の「やりきった」という感じが好きだった。
今の私がマラソン大会に出たいという意味ではないんだけど、話がそれた。
競争すれば1位とビリがどうしても決まる。でも参加してもいいじゃないかな。
✴︎マラソンと持久走は何が違うのかわからないです。距離かな?
昔、呉智英(だと思うが違うかもしれない)の本に一生賭けて1つの数学の問題を解いた男がいたらしいが、その問題は数学界ではとっくの昔に解かれていて、その男の一生は何だったんだろうと、どっちかっていうと嘲笑うような事が書いてあったのを覚えてる。
私はその男の生き方も面白いと思う(笑えるという意味ではない)。
だって自分の力で問題が解けたって快感じゃないかな。もちろん「俺が初めて解いたんだ!」って言える快感には敵わないのかもしれないけど、解いてから死ねて本望かもしれないし、それは本人しか気持ちはわからないだろうけど。
「どうせ」をカッコよく使うとしたら「どうせ死ぬんだから好きに生きて死んで行け」
...じゃないかなと思う。