自分が特に特にどうという文章を書けるという自信もなく、それでも何か言いたいから言うために書いているが、それが何になると言うのか。
本が、文章が、読書が、勉強が好きと自信を持って言える人が羨ましい。言えない私は重荷を背負っている。
解放されろと言ったって長年積み上げてきたものは簡単には下ろせない。文章を読むのに抵抗のない人間から「あんな風にならなくて良かった」と蔑まれるだけ。バカにされるだけだ。
私は自信がない。立ち直れたかもと一瞬思えた時、倍の年齢生きるつもりだった。ブログを始めてもっと良く書きたい、上手く書きたいと思うほど良くも上手くも書けないことに打ちのめされた。
自分は生きられない、書くこともできない。
業が深いもんだ。
お腹が空いたのでサッポロ一番にタマゴだけ溶かしたの食べて寝ようか。
勉強のようなことを少ししていたけど身が入らなくなってきたので、また仕切り直し。いつからでも復活はすればいい。
人生はいつか終わる。
池田晶子の本に自分の生い立ちからしたら許せないことが書いてあり図書館で読んでいて、その本を叩き破りそうになったことがある。
本が嫌いというのには時たま我慢ならないようなことが書いてある、そのせいもあるだろう。そんな本ばかりではないことはわかっているけれど癒しや勇気づけの本になかなか出会えないことにも問題があるのかもしれない。
それは自分の選び方が悪いのだろう。多くの人は「ハズレ」を掴みながら「アタリ」に出会ってるというから「ハズレ」で打撃受けてるような私の読書スタイルでは本を嫌いになるよな。「ハズレ」に会ったら落ち込みが激しいという癖を直すのが先決かもしれない。
どこかに宝石のような本があるかもしれないのだから。
本は人そのもの。対面して話すのが苦手だから本としか話せない。だけど人間嫌いでもあるからどんな人とでも話せないのと同様に本も選り好みする。悪い癖だ。
最近になって池田晶子の本は意外に面白いと気づいた。図書館で叩き破りたい衝動に駆られた一文二文以外は。衝撃を受ける本ではあった。
読書は反感も共感も包み込むものであって共存するものであって「共感しかない」というものもないのだろう(あるのかな...)。
ただ人とずっと話しているのは疲れるけど本は閉じて休ませておくことができる。話すための時間を自由に調節できる。自分のペースで話せるからいい。
読書嫌いは人嫌い。それでも孤独で話す人もいないから選り好みした本と話しながら生き続けていく。
気の合う人間がやたらめったらいないのと同様に気の合う本もそうはないのかもしれないので気長にやっていきたい。