ブログには書いてなかったけれど私は最近、一時期ある宗教勧誘の人の家で聖書を勉強していました。その宗教の悪評などはネットなどで知っていました。しかし私は宗教に抵抗がなく世間の評判など気にしないところもあったので、あまり関係ありませんでした。けれど、あることに納得いかなくなり、その勉強会に行くのをやめました。
今日、久しぶりに家まで勧誘の人が訪ねてきて「体調どうですか?」と聞かれたので「大丈夫ですよ」とか答えて少し話して、その後、帰られました。勧誘の人を仮にAさんとします。
私はこの宗教に入ろうとは思っておらず、ただ聖書の勉強に興味があっただけでした。Aさんは物腰の柔らかい女性で私より2歳年上の同年代の方でした。
勉強会、そのコミュニティはすごく暖かいのでした。はぐれものの私でも受け入れてくれるのです。コミュニティといっても勉強会はAさんの家で2人で冊子を読み合うという感じで、こじんまりしていました。行くと、いつも美味しい紅茶が用意されていました。
私も毎週決まった日に行くのは面倒で体調が悪いといって休むことも多かったのですが、そんな時は元気出してねと私のアパートまで野菜や手作りケーキなどを持ってきてくれたのです。重いなと思いましたが嬉しくもあり、ありがたく食べました。
私が疑問に感じたのは教義内容です。コミュニティが居心地いいからといって居座るのは間違っていると思いました。勉強すればするほど自分の考えと違うので無理でした。世界観が違いました。なお聖書の勉強とはいっても、この宗教の聖書の内容は伝統的なキリスト教の聖書とは違っているそうです。
それと私がこの宗教から引いたのはコミュニティが居心地よすぎて抜けられなくなったら困るからです。私は頑なに拒否したのですが集会もありました。私は人が多いのは苦手で行きたくなかったので、それはAさんに伝えました。
この宗教は新興宗教と言われています。心地よいコミュニティがあり教義に納得いっていれば、ずっといても良かったです。Aさんは友達のように接してくれて、とても親切でした。その点に私はとても感謝しています。宗教に引き入れるための優しさだろうと思ってはいましたが。
宗教に身を委ねてしまうのは軽く狂っているのか(私のことです)何かにすがりたいのだと思います。それを情けないとか逃げとか思われるのはしょうがない。新興宗教なら、なおさら危険視されます。でも伝統のある宗教も、その歴史は血みどろだったりするので伝統があるからといって信用できるのか私は疑問です。
その宗教は進化論を否定していました。私は進化論を肯定しています。そこを覆せない限り、その宗教に私の居場所はないのです。
私にとって宗教は大事なものだし理解されなくても生きるために必要です。だけど今回のことで、もはや宗教に自分の居場所はないのかと思いました。だけど無宗教では私は虚しいのです。
私が勉強会に行っていた、この宗教には、やはり世の中から弾かれた、孤独な人が多いようでした。私もそうですが世の中から弾かれると気が弱くなるのではないでしょうか。私は今1週間に1度しか外に出ない、ひきこもり状態で判断力も鈍っています。私がAさんの勧誘に乗ったときもそんな感じでした。
私は、この宗教に入る気はもうないですが暖かさを求めて入る人もいると思います。居場所を求めているんです。
勉強会に出ただけなので将来的にどうなったのか、わかりませんが、この宗教は、お金は全くかかりませんでした。お金を払えという圧力もありませんでした。聖書も無料でくれます。でもやはり、ついていけないところが多く納得できなかったのです。
何となく思うのですが宗教ってコミュニティが居心地がいいからという理由だけで、いる人もいるのではないでしょうか。宗教は居場所以外の何かがあるのか。教義に納得いかなくてもいればいいのか。
私はもう行きません。でもAさんの顔を思い出すのです... 話した感じだとAさんも色んな葛藤があるようでした。葛藤がない人なんていないのかもしれません。ただ真面目に考えすぎるようなところが宗教の人にはある気がします。やめる前にAさんと腹割って話しとけば良かったかなと思っています。
以上、宗教に抵抗がない私が、家に訪ねてくる系宗教の勉強会に行って、やっぱりやめた話でした。
終わり。